(1)政治の動き
中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足が中心となって断行した、大化の改新に始まる中央集権国家の礎は、弟の天武天皇によって固められ、その事業を妻である讃良皇女(さらら)ー持統天皇が引継ぎ、律令制の整備(大宝律令の制定)と新都・藤原京の造営をはかりました。
しかし、新都・藤原京も本格的な律令制の成立とともにまたもや手狭になり、わずか17年で平城京に遷都されました。
平城京は唐の都・長安を真似た本格的な城郭都市でした。藤原京の3倍の面積を有する平城京の造営は空前の大工事であり、総面積600ヘクタール、道路の総延長350km、側溝工事700km、木造家屋7000戸分という、現代でいうと5万人規模のニュータウンに相当する、まさに前代未聞の大事業でした。
全国から延べ100万人の人々が歳役(さいえき、税としてかり出される労働作業)として動員されました。月ごとに米と塩が支給されるだけで、他の生活費や往復の旅費は故郷からの仕送りに頼らなくてはなりませんでした。
歳役を終えて帰郷する者も途中で食料が尽き、野垂れ死にする人々が続出しました。律令国家への道は、古代より古墳、宮殿、寺院や飛鳥京、藤原京、平城京などの造営事業が付きまとい、古代の民衆にとってはまことにつらい律令国家の建設であり、民衆の犠牲の上に成り立つものでありました。
新都の建設とともに、大宝律令の制定により行政組織も確立されました。中央官庁は、二官八省の制度(にかんはっしょう)で、二官は、宮中の祭祀と神社行政をつかさどる神祇官と、八省の行政組織をつかさどる太政官で、太政官は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・少納言・参議で構成され、その下に中務省(なかつかさしょう、天皇の側近で天皇の国事行為を補佐する役目で、八省中最重要の省)、式部省(文官人事・学校などを司る)、治部省(じぶしょう、外交や葬送などをを司る)、民部省(みんぶしょう、民政・財政・戸籍・租税などをを司る)、兵部省(ひょうぶしょう、軍事関係・武官人事などを司る)、刑部省(ぎょうぶしょう、裁判・刑罰などを司る)、大蔵省(財物の保管・度量衡や物価の決定などを司る)、宮内省(くないしょう、宮廷内の事務・宮中の食事などを司る)の八省があります。
各省のトップは卿(きょう、現在の大臣)と称し大納言・中納言・参議の三位以上のものがなり、省の下に職(しき)・寮(りょう)・司(つかさ)の下部組織がありました。
また、地方行政組織も整備され、国(現在の県で、知事にあたるのが国司(こくし))の下に郡(こおり、現在の市で、市長にあたるのが郡司(ぐんし))を置き、その下に里(さと)をおきました。五十戸(こ)を一里(り)として戸籍をつくり里長(りちょう)を決めて税をとりたてさせました。国司が事務をとった役所を国衙(こくが、現在の県庁)といい国衙のあった場所を国府といいます。
すべての土地と民が国家の所有であることが明確になり、公民に土地が与えられる代わりに「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」の税金が課されることになりました。
また、流通することを目的に作られた最初の貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」(富本銭は呪術的な意味に重きをおかれた)が発行されました。ちなみに平城京造営のために課せられた力役(りきえき)には1文(枚)の和同開珎が支払われました。 古代の農民は律令制度の基本単位とされ、国から完全に支配される存在でした。彼らに課せられた税には、分け与えられた田から収穫の約3%の稲を納める租、正丁(せいてい、成人の男子)、1人につき布2丈6尺を納める庸、各地の特産品を納める調があります。さらに力役としての雑徭(ぞうよう)があり、正丁は国司の命令で働かされ、また仕丁(しちょう)の制度で国から徴発され都での雑役に従事し、兵役で宮廷警護や西国の防人に派遣されたりしました。
農民にとっては働き盛りの男が取られることはまさに死活問題でありました。彼ら農民は食べるものにも事を欠き、常に飢饉や疫病の恐怖にさらされていました。(関連資料1)
律令国家は仏教を国家鎮護の道具に利用するのみであり、困窮する民衆に対して、仏教本来の目的である救済をメインに布教活動を行ったのが行基(ぎょうき)でした。飛鳥寺の高僧・道昭(どうしょう)について法相宗(ほっそうしゅう、奈良時代に中国から伝来した。興福寺・薬師寺など)を学び、渡来系氏族の技術を駆使し、寺院だけでなく溜池、橋、道路、布施屋などの建設を献身的に進めました。人々はやがて彼を「行基菩薩」と崇めました。
国家ははじめ弾圧を加えましたが、大仏建立を思いたった聖武天皇が、行基の民衆動員力に着目してこれを取り込む方策に転じ、僧侶の最高職である大僧正(だいそうじょう)に任命しました。彼は大仏勧進や東大寺の完成にも尽力し、また政府の新田開発に「三世一身法(さんせいいっしんのほう)」を導入することを進め、農民の救済にも力を発揮しました。
壬申の乱で、天智天皇の側近であった藤原不比等(藤原鎌足の息子)は天武天皇・持統天皇の下で一時不遇をかこっていましたが、文武天皇の后に不比等の娘の藤原宮子がなり、その二人の間に生まれた聖武天皇の后に不比等の娘の藤原光明子(こうみょうし)がなり、その二人の間生まれた子が孝謙天皇となる、藤原の血を受けた天皇の出現が、平安時代まで延々と続く藤原一族の長い栄華の歴史の原点であります。(関連資料2)
また、東国の民(蝦夷えみし)を律令体制へ組み込むため多賀城(宮城県多賀城市に造られた陸奥国府と鎮守府を兼ねる東国の最重要拠点)や秋田城を造営し、遠征軍を派遣して、朝廷の支配下においていきました。それは、狩猟・採集中心の民を稲作の民へ強引に転換させることであり、東国を、けかち(飢饉の方言)の国へと追いやった遠因であります。(関連資料3)
781年強烈な個性を発揮する一人の天皇が即位しました。渡来系氏族を母に持つ異色の天皇である桓武天皇です。
桓武天皇は、皇統が天武天皇の血を引くものから天智天皇系へと移ったのを機会に、天武系王朝の怨念渦巻く大和・平城京から、山背国(やましろ)の長岡京そして794年に平安京へと都を遷しました。
遷都は、南都七大寺の僧侶が政治に介入するのを断ち切るためでもありました。平安京へ遷都後は官寺の建立や移転は禁止されました。 そして平安京は陰陽道(おんみょうどう、風水)でいう最高の地「四神相応」の場所で、東に流水「鴨川」、西に道「山陽・山陰」、南に湖「巨椋池(おぐらいけ)、北に山「船岡山」があり、四神に守護された理想的な場所でもありました。
, 以後、千年にわたり日本の都となる平安京=京都の誕生です。そして、時代は奈良から平安へと移っていきます。
(2)仏教の動き
奈良時代に入ると仏教は最盛期を迎えます。しかし、仏教そのものとしての発展ではありませんでした。仏教は国家の保護のもと、国家統治の方法として利用され、国家の支配下に置かれていました。朝廷は東大寺や興福寺などの南都七大寺を建立し、また聖武天皇の時代には、全国の国ごとに官立の国分寺、国分尼寺(総国分寺が東大寺、総国分尼寺が法華時)が建立され、僧侶も国家公務員としてあつかわれました。そして、仏教の教義研究が行われ、その中心的存在が中国から伝来した六つの宗派「南都六宗(なんとろくしゅう)」でした。
聖武天皇は僧尼(そうに)の育成にも力を注ぎ、唐から戒師を招くため興福寺と大安寺の僧を遣唐船に乗船させました。754年唐の高僧「鑑真(がんじん)」が何度も渡航に失敗しましたが、苦境を乗り越え来日し、戒律(僧の守るべき規律)を整備し、東大寺に戒壇(戒律を授けるための場所)をつくり、正式の僧を認定するための受戒制度を確立しました。また、唐招提寺を創建し、仏教の教義の研究と講義を熱心に行いましたが、度重なる苦労で肉体はすでに困憊(こんぱい)し、日本仏教の向上のため異国の地で骨を埋めました。
仏教を背景として絢爛たる天平文化や壮大なスケールの平城京の造営など律令国家が円熟していくその一方で、重税や飢餓、疫病などにあえぎ苦しむ人々の姿がありました。
時の聖武天皇はこれを憂い、国家鎮護を願った廬舎那仏(るしゃなぶつ)の建立を思い立ち、大僧正の行基を大仏建立の最高責任者に任命し、9年の歳月を経て、752年東大寺に空前絶後の巨大な金銅仏である大仏を完成させました。その一方、僧侶は奇跡を行う力があるとされて祈祷が求められ、鎮護国家(国を鎮め守ること)、五穀豊穣の現世利益(げんぜりやく)の実現を要求されたのでした。(関連資料4)
(3)文化の動き
飛鳥時代後期(大化の改新)から奈良時代前期(平城京遷都)までを白鳳文化、それ以降を天平文化といって区分しています。
白鳳文化の特徴は、中国で完成された仏像表現を、朝鮮半島を介して積極的に学びました。抽象的で非肉体的、厚みのないスリムな身体表現、面長な顔などが特徴で、仏像や仏画が渡来人たちの主導で生み出されていきました。現在に伝わる法隆寺の小金銅仏や観音菩薩像や玉虫厨子、高松塚古墳の壁画などが有名です。
天平文化は、聖武天皇の時代を中心とした奈良時代の文化を総称していいます。唐の文化をはじめ世界各地の文化の影響を受け、東大寺の大仏(廬舎那仏)や南都七大寺の壮大な伽藍配置など豪壮雄大でまた貴族的で仏教的色彩の濃い文化で、東大寺正倉院に残る宝物の数々はシルクロードの終点であった奈良の都の往時を偲ばせる文物も多くあり、異国ムード漂う歴史的所蔵品が眠っています。
また、「日本書紀」や「古事記」そして「万葉集」などが編纂されました。「日本書紀」は日本初の勅撰(ちょくせん、天皇の命により作られた書物)歴史書で、720年に舎人親王らが編纂しました。
「古事記」は、天武天皇が天皇の系譜・事績・説話・伝承を検証し、取捨選択したものを稗田阿礼(ひえだのあれい)にまとめさせ、712年元明天皇が太安万侶(おおのやすまろ)に命じて稗田阿礼が諳んじたものを集成しました。
「万葉集」は、770年頃大伴家持の手を経て編纂されました。現存する最古の歌集で古代から奈良時代までの長短歌など合わせて約4500首を収録されています。「日本書紀」や「古事記」そして「万葉集」は、日本の古代史にとってかけがえのない史料です。 |
【用語解説】
・三世一身法---荒廃した土地を開いた場合は一代、新たに土地を開墾した場合は三代にわたり、土地の占有を許すという画期的な制度で、新田開発は進みましたが、しかし、国へ返す期限が近ずくと農民は放棄してしまい、結局は荒廃させてしまうようになり、20年後には開墾した土地は自分の財産としていいという「墾田永年私財法」が発布されて、公地公民をうたった「班田収授法」は姿を消し、のちの「荘園制度」に繋がっていき、律令国家衰退の兆しが早くも始まっています。
・南都六宗---奈良時代の仏教は、中国から伝来した仏教でした。三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)を南都六宗と呼ばべれ大いに栄えました。南都六宗はもともと東大寺に属していて、いずれも各宗の教理を研究する学問仏教でした。奈良時代の寺院は、現在の寺院と違って、特定の宗派に属することななく、一つの寺院のなかに種々の宗派の僧が学んでいて、現在の国立大学にあたります。現在は、法相宗は興福寺・薬師寺を本山とし、律宗は唐招提寺・西大寺を本山とし、華厳宗は東大寺を本山として、三宗に集約されそれぞれの活動を展開しています。
・南都七大寺---律令国家の時代に国の命によ、南都七大寺といわれる大管大寺(だいかんだいじ、大安寺)・薬師寺・元興寺(法興寺又は飛鳥寺)・興福寺・東大寺・西大寺・法隆寺が建立されました。 |
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【関連資料】 |
関連資料1・・・万葉集「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」 苦しすぎた農民の暮らし |
寒さのなか、ボロをまとい食べるものもなく、堅く冷たい地面にワラのみを敷いた家に住む農民のもとに、非情な役人が税を取り立てにやってくるさまが詠われています。 |
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関連資料2・・・司馬遼太郎「司馬遼太郎全講演」 大化の改新と儒教と汚職 |
・・・奈良の都ができる前に大化の改新がありましたね。非常に日本的な現象であり、中国、朝鮮とは全く違った国への出発点となった。・・・大化の改新の楽屋裏は、はっきりしています。藤原鎌足という人の仕事ですね。皇室の側近、秘書を務めていた人でした。そのころの日本は統一国家ではありません。無数の土着勢力によって国はわかれていて、東北は視野に入っていなかった感じです。せいぜい那須ぐらいまでが国だった。そして無数の豪族勢力のひとつが天皇家であり、どういうわけか神聖視されていました。その理由はわかりませんが、宗教的な存在でした。・・・
・・・天皇を単なる宗教的な存在ではなく、中国の皇帝のごとくにしたい。そうすれば天下を統一できる。・・・
・・・当時、隋は煬帝(ようだい)という、三日天下の皇帝が現れ、次に唐帝国が出現します。鎌足が考えたのは、唐の制度をそのまま日本の制度に持ってくれば、統一することができるということでした。民草(たみくさ)はすべて天皇の下にあり、豪族も同じだ。・・・こんな考え方がインテリのなかに浸透しつつあり、鎌足はそれを代表したのだろうと思います。こうして大化の改新により、豪族の代表である蘇我氏をクーデターで倒すことに成功した。・・・
・・・中国とは何か。ひとことで言うとすれば、一個の文明としか言いようがありませんね。大文明を築いたといえば、インドがそうです。ヨーロッパにはキリスト教文明があり、中国には儒教文明が成立しました。そこには文明の原理が必ずあります。ところが、日本は文明原理というものと関係ありません。おそらく世界中で日本だけだと言っていいかもしれません。これが日本人の悲劇であり、喜劇でもあります。いいところでもあり、悪いところでもある。・・・
・・・いまの私たちが文明について知らないように、鎌足も知らず、目に見えるものだけを取り入れた。官吏の制度、国家の制度、お寺、これらは文明の生み出した産物というか、端くれのようなものですね。バックのない、豪族出身でない鎌足にしてみれば、文明の端くれを取り入れることが、自分の権勢を得る方法でした。中国風の国家をつくるという鎌足の壮大な夢の前に、結局、豪族たちは従うことになります。ところが看板だけでしたね。見たところ中国風の国家になったのですが、内容はそうでない。日本では結局、科挙の制度が根づくことはありませんでしたが、・・・
・・・律令体制といっても、原理をもってこないかぎり儒教体制でも何でもないものでした。官吏の名前などを日本的に装飾しただけのものに終わりました。鎌足の子孫だけが官吏になってしまう。藤原氏の隆盛の時代になります。 |
関連資料3・・・司馬遼太郎「街道をゆく」 北のまほろば 古代の豊かさ 抜粋 |
・・・津軽は青森県のすべてではない。青森県の日本海よりの水田地帯をさしている。さらにいうと、太平洋岸地方は南部とよばれ、両地方はおなじ県ながら、人情や風習、さらには明治以前の歴史を異にしている。津軽も、あるいは南部をふくめた青森県ぜんたいが、こんにち考古学者によって縄文時代には、信じがたいほどゆたかだったと想像されている。むろん、津軽だけでなく、東日本ぜんたいが、世界でもっとも住みやすい地だったらしい。山や野に木の実がゆたかで、三方の海の渚では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べもののほうから、身をよじるようにしてーサケ・マスのことだがーやってくる。そんな土地は、地球上ざらにはない。そのころは、「けかち」(飢餓の方言)はなかった。当然のことで、この地方の苦の種でもあった水田がはじまっていなかったのである。・・・
・・・津軽藩は豊臣秀吉が小田原攻めをしていた1590年に成立した。この藩が明治4年(1871)に終幕するまでの3世紀ちかいあいだ、世間のならいに従ってーあるいは幕藩体制の原理どおりーコメのみに頼った。・・・
・・・もし、である。仮りに考えるのだが、もし津軽藩が、創設早々に、幕府につぎのようなことを申し出でていれば、どうだったろう。「わが藩は、均(なら)して5年に1度、“やませ”という悪風が吹いて稲が枯れます。そのときは藩も農民も立ちゆきません。によって、藩のみ自由な経済の“たて”は許されないものでしょうか」・・・
・・・ところが、現実の津軽藩は、そのようには向かわなかった。コメが、この藩の気候の上から危険な作物であるにもかかわらずー西方の諸藩でさえ江戸中期以後、換金性の高い物産に力を入れはじめたというのにーコメに偏執し、・・・
・・・古代は、よかった。中世も、わるくなかった。おそらく中世になっても、古代以来のゆたかな自然を享受するくらしー農業に加えての採集生活ーがつづいていたのにちがいない。中世、日本海岸の十三湊(とさみなと)は、「十三往来」によると、“夷船京船群集し”大層なにぎわいだったという。・・・
・・・青森県は、ふしぎな地である。縄文時代には、亀ケ岡式土器(かめがおか)というすぐれた土器を生みだすほどに豊かで、当時貧寒たるくらしをしていた縄文西日本に対して優位に立ちながら、その後、西方からの力と文化に押されるにつれてー西方の体制に従うにつれてー僻陬(へきすう)の地になってゆくという地である。・・・ |
関連資料4・・・井上 靖 「天平の甍(いらか)」 抜粋 |
朝廷で第九次遣唐使発遣のことが議せられたのは聖武天皇の天平四年で、・・・
・・・それよりこの時期の日本が自ら課していた最も大きい問題は、近代国家成立への急ぎであった。中大兄皇子に依って律令国家として第一歩を踏み出してからまだ九十年、仏教が伝来してから百八十年、政治も文化も強く大陸の影響を受けてはいたが、何もかもまだ混沌として固まってはいず、・・・
・・・課役を免れるため百姓は争って出家し、流亡していた。ここ何十年間かそうした社会現象を食いとめるために、幾十かの法律が次々と出されていたが、効果は一向にあがっていなかった。問題は百姓ばかりではなかった。僧尼の行儀の堕落もまた甚しく、為政者の悩みの種になっていた。・・・仏教に帰入した者の守るべき規範は何一つ定まっていず、・・・目下のところでは仏徒は自誓受戒するか、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を受ける程度で放埓に流れ次第である。これらの仏徒を取締るのは、まず唐より傑(すぐ)れた戒師を迎えて、正式に授戒制度を布くことである。人為的な法律は無力であり、仏徒が信奉する釈迦の至上命令を以てこれに臨むほかはなかった。・・・
・・・日本の遣唐使節が、玄宗に鑑真および五人の僧の招聘を上奏したのは、一行が長安の都を発つ日取りが決まってからであった。・・・
・・・天平勝宝七年二月、鑑真は西京の新田部親王の旧地を賜り、そこに精舎を営み、建初律寺と号した。この工事の途中聖武天皇が崩ぜられて、造営は一時中止となったが、孝謙天皇は先帝の遺志をつぎ、天平宝字元年勅して金堂等の工を始め、三年八月にして成り、天皇より「唐招提寺」の勅願を賜って山門に懸けた。そしてこの唐招提寺の落成と同時に、天皇は詔して、出家たる者は先ず唐招提寺にはいって律学を学び、のち自宗を選ぶべしと宣したので、寺には四方から学徒が集まり講律受戒は頗(すこぶ)る盛んになった。・・・ |
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